なぜ写真を撮っているのですか
そう聞かれることがあります。いつも即答できずにもごもごしているのですが、この機会に考えてみることにします。
写真を撮る理由のひとつはそれを生業にしているから。アートディレクターや編集者から依頼を受け、求められた写真を撮って報酬をいただいています。
しかしこの質問をしてくる人が聞きたいのはきっとそういうことではないのでしょう。「あなたは、お仕事ではない日常の写真をなぜ撮っているのですか」これが正しい質問の意図かもしれません。写真やカメラにまつわる僕の最初の記憶に、なにかヒントがある気がするので少し考えてみたいと思います。
写真にまつわる最初の記憶
僕が写真を撮った最初の記憶は小学校の遠足です。母に買ってもらった『写ルンです』で楽しそうにはしゃぐ友人たちを撮りました。子どもながらに自分が楽しいから撮っているのではなく、この遠足を楽しかったことにするために撮っている感じがしました。そのなんとも言えない気持ちはいまでも覚えています。
現像し、プリントされた写真を見た友人たちはとても喜んでいました。僕の写真との付き合い方は中学生になってからもあまり変わりませんでした。林間学校、修学旅行などのイベントがある時に『写ルンです』を人よりたくさん持っていきました。どこか心の底から学校生活を楽しめていない自分が、後で写真を見返した時に寂しくないように、楽しい思い出を撮り溜めている感覚がありました。普段それほど仲良くない友達と肩を組んで自撮りをしていた事を覚えています。
読んでいて可哀想な気持ちになってきた人もいるかも知れませんが、これはありふれた話です。多かれ少なかれみなさんにも経験があると思います。僕ほど大げさでは無いにしろ、その写真を見るであろう友人や未来の自分に「こう思ってほしい」と願いながら写真を撮ることがあるのではないでしょうか。しかし、たいしたもので、写真はそのことをしっかり写して残しています。中学生の引きつった自撮り写真がここにあります。それは決して醜いことではないはずで、そういう写真(自分)を認められれば過去の自分もそれらの写真もしっかり成仏する気がします。私は写真のそういう切実さに魅了されているのだと思います。
季節と写真
季節にはいつも驚かされます。夏が好きな僕は、5月には日が延びてきてわくわくした気持ちになり、7月中頃になると「こんなに暑かったっけな」と夏への想いがゆらぎ始めます。11月の寒くなり始めた頃には、「これからもっと寒くなるのか」と恐ろしくなって、雪が降る日には「やっぱり雪が降る日の寒さは一味違うな」とつぶやきます。生まれてからずっとこのループの中にいるはずなのですが毎回もれなく感動させられます。
それは自分で撮った写真の感動にも似ています。写真はその時そこにいなければ撮れませんから、撮った人はそこに写っている出来事をもれなく経験しているはずです。しかし不思議なことに、プリントされた写真を通して久しぶりに出会ったその出来事がまた再び自分の心を動かすことがあります。正確に言えば、撮ったと思っていた出来事、もしくはその周辺に意図せず転がっていたものや事に、気付かされ感動することがあります。
その時に人は大体のことを忘れていたり、気づかなかったり、知っていると思っているだけなのだとわかります。満開の桜を前に、毎年フレッシュに感動できるよう、ぼんやりと感度高く生きていきたいです。
願わない求めない
僕には妻と息子ふたり猫二匹の家族がいます。息子に名前をつける時に心にきめていたことは、求めないということです。親だったら子の幸せを願うのは自然なことだと思いますが、こうなって欲しいという親の願いを子に託すのはやめておこうと思いました。僕たちが感じた喜びや感動を絞り過ぎずに伝えることにしました。長男は春、次男は風と名付けました。
家族の写真は毎日撮ります。リビングにはフルオートでシャッターを押せば撮れるコンパクトフィルムカメラが置いてあります。誰が撮ってもよくて、私が撮ったり妻が撮ったり、来客が私たち家族を撮ったりすることもあります。日常的に、息を吸うように写真を撮ることで、こう見られたいというような作為が、撮る側も撮られる側もなくなっていきました。撮った写真は必ず全てプリントしていて、その中からその時々に飾りたい写真をL判くらいのサイズで額装しています。
今回、ウォールデコで出力する写真のサイズをA4とA2にしました。理由は普段私達が撮っている35mmフィルムの縦横比に近かったからです。普段飾っている写真のサイズよりもずっと大きなサイズだったので新しい写真の選び方になりましたが、思いを込め過ぎないセレクトはいつも通りです。
リビングには窓の代わりになるような緑と、夏に向けてひんやりした雪の写真を選びました。仕上げはミュージアムタイプで、紙はグロッシーにしました。光沢のあるプリントは映り込みが気になるという方もいるかと思いますが、僕はその映り込みが物としてそこにある感じがして好きです。この写真たちにまつわるエピソードや思い入れは、実は特にありません。いつもリビングで写真を撮っている時と同じように、求めずに願わずにそこに置きました。雪の写真は見覚えがなかったのですが、やはり妻が撮ったものでした。
玄関には息子たちの写真を選びました。朝早くの仕事でお見送りが無いときも、これがあれば大丈夫です。
廊下にはどこに飾ろうか迷っている写真が転がっています。この写真だけギャラリータイプで作りました。なぜでしょう。具体的に置く場所がイメージできていなかったのと、実家にプレゼントすることも考えていたのかもしれません。プレゼントするなら作品感があったほうが喜ばれる気がします。でも意外にここに置くのもいいかもしれません。それくらいきまぐれにオーダーするのもおもしろいです。
なぜ写真を撮るのか、飾るのか
特別な思い入れやエピソードで飾る写真を選んでいない分、その時々で写真の見え方が変わっていく気がします。写真は変わらないわけですから、変わるのはいつも季節や自分たちです。雪の写真は冬になったら寒いので、妻のビキニの写真に変えるかもしれませんし、窓が沢山の家に引っ越したら、緑の写真は狭い家に住むアシスタントにあげましょう。もし妻に愛想を尽かされたら、大きく伸ばした出会った頃の二人の写真を玄関に飾って待ちましょう。
なぜ写真を撮っているのか、雪の写真を配置しながら考えていました。2歳と1歳の息子を二人連れ、雪を見せに遊びに出かけた母親の姿が浮かびました。僕と同じで寒いのが苦手な妻です。
写真を通してその写真を撮ったときの自分や妻、またはいまの自分たちを感じたいのかもしれません。「玉村さんはなぜ写真を撮っているのですか?」と聞かれると、いつもこんなことを思い、どこから話そうかともごもごしていました。どこかで僕に会った時に同じ質問をしてみてください。いまの話はすっかり忘れて、もごもごしながらまた考えてみます。
玉村敬太さん( @keta_tamamura )
1988年生まれ、東京都在住の写真家。2013年より写真家鈴木陽介に師事、2017年に独立の後、玉村敬太写真事務所を設立。 雑誌、web媒体から広告写真まで幅広く活躍。休日には誰でも参加できる写真館「きまぐれ写真館」を不定期で開館するなど活動の幅をさらに広げている。2020年12月には、日頃より撮りためている玉村家の日常を「いのちがいちばんだいじ展」と題してweb上で展示を開催。
Photo & Writing by 玉村敬太さん