人々の暮らしの中に溶け込み、気軽で身近な存在となった「写真」。普段、PCやスマホに入っている写真を部屋に飾る。その行為の中で、どんな想いが生まれるのでしょうか?「私が写真を飾るまで」は、そんな写真を飾るまでのストーリーを振り返り、その本質や価値を掘り下げる連載コラムです。
第1回目は、作業療法士をしながらかけがえのない家族との日常を写真におさめ続けている、川原 和之さんの言葉と写真でお届けします。
家族アルバムの中にあった記憶のない自分
僕は仕事柄、フィルムで写真を撮り続けていることもあり、写真屋さんにフィルムを現像に出すときは、スキャニングと同時に必ずプリントしてもらっているので、普段から写真をプリントすることが習慣化している。そんな僕が、意識して写真をプリントして残そうと思ったのはいつだっただろう。振り返ると、もしかしたら自分の結婚式の準備をしている時だったかもしれない。
それは、もう12年前のこと。当時、結婚式の準備している最中、結婚式場で流すプロフィールムービーに幼い頃の写真を使うことになり、妻とそれぞれの幼少期の写真を家族アルバムの中から探さなくてはならなかった。その頃には僕は実家を離れて暮らしていたのだが、自分のアルバムを母親が作っていたことはぼんやりと覚えていたので、母親にアルバムを見せてほしいと電話で伝えて、妻と2人で僕の実家へ向かった。実家では母親が押入れの中からたくさんのアルバムを出してきてくれた。
そして、両親が、僕が覚えていない幼い頃のエピソードを妻に話しはじめた。どのエピソードもとても恥ずかしいものばかりで、一刻も早くその場を立ち去りたい気持ちだった。早く終わってほしいという気持ちが顔と態度全面に出ていたことだろう。
30年分の埃を被った古いアルバムには、色褪せてしまっているたくさんの写真が雑然と貼られていた。ページの上に簡単な出来事と日付のラベルだけが書かれていて、写真が重なっていたり、いびつに歪んで貼られていたりと、そのアルバムは母親の性格がよく表れていた。旅行先で弟と同じ洋服を着て一緒に並んで撮った写真や、緊張した顔で母親と並んで撮った小学校の入学式など、覚えている写真もあったが、5歳以前の記憶は全くないといってなかった。
家族はエピソードを妻に話すことに夢中でページをめくる手が進まないため、居場所をなくした僕は部屋の片隅で祖母が入れた濃すぎるお茶をすすりながら、1人でアルバムをめくり始めたとき、あるページで手が止まった。そのページには若かりし頃の両親や祖父母に抱きかかえられた生まれたばかりの赤ん坊の写真が所狭しと貼られていた。その写真に写る家族はどの写真もカメラ目線ではないこともあって、生まれたばかりの幼い赤ん坊に夢中だった様子が伝わってきた。
のちに娘を授かった時に、僕も娘のために家族アルバムを残してあげようと思うきっかけになったのは、もしかしたらこの時だったかもしれないと今では思う。
家族の写真は家族のもの
今回、WALL DECOR(ウォールデコ)のプリントサービスを利用させていただく企画の話を頂いたとき、その1枚を思い切って9歳の長女に選んでもらうことにした。僕がとっておきの1枚を選んでもよかったのだけど、家族が一番長い時間を過ごすリビングに飾る写真だから、娘が選んだ家族の写真を飾るのがいいのではないかと思ったからだ。
僕が娘に好きな1枚を選んでいいよと告げてタブレットを手渡すと、娘は真剣に1枚ずつ、まるでアルバムをめくるように写真を見つめていた。
かなり悩んでいたようだったが、「これがいい」と選んだ写真は、眠っている幼い娘が母親に抱かれている写真だった。
「なんでこれがいいと思ったの?」と聞くと、「ママの優しい顔がいいと思ったから。逆光の光もなんだか柔らかい感じがする」と。僕は、光が柔らかいだなんて、子どもがカメラマンみたいな表現を使うことに可笑しさが込み上げてきたが、よくよく考えてみると僕がカメラを構えながら「いい光だなぁ」なんて普段つぶやいているのを耳にしているからかもしれないなとも思った。子どもは親をよく見ている。
この写真撮った時のこと覚えている?と聞いてみると、「そんなの覚えているわけないでしょ。」と。それはそうだよな。でも、娘がこの写真を見返していたときに感じた想いは、僕が結婚式の準備に家族のアルバムを開いたときと、同じような気持ちだったんじゃないかと思う。
家族写真は時間をかけてつながっていくものだ。
注文したウォールデコが届き、部屋に飾った写真を妻が見た時、妻は写真をみながら、「この頃は小さくて、いい匂いがしていたな」と、今では抱っこできないくらいに大きくなった娘と比較しながら、両手で包み込むように抱きかかえることが出来た娘の軽さと頭皮のあまい匂いを思い出していた。そして、「この当時を思い出して、もう少し優しくしてあげないといけないかもね」と笑った。
僕自身も、写真に込めたメッセージの一遍が娘に届いたような気がしてうれしかった。
娘が選んだウォールデコはリビングの壁に飾った。ウォールデコの種類は、ギャラリータイプのスクエアサイズを選んだ。木製パネルと台紙が高級感ある仕上がりで、リビングの白い壁に立てかけて飾るだけで存在感が引き立つ。僕がダイニングチェアに腰掛けると、テーブルの向かいに座った娘越しにその写真が目に入る。写真の中の娘はいつまでも穏やかに眠り続けているけれど、目の前の娘たちは少しずつ大きくなっていく。
まだ幼い次女は、使い始めた不慣れな箸を使いながら小さな口いっぱいにごはんをほおばっている。もう少し大きくなったら、今度は次女に写真を選んでもらうのもいいかもしれないと思った。どんな写真を選ぶかな?
思い出が必要になる時
今回、もう1枚注文したウォールデコは、僕の書斎に飾ることにした。その写真は、祖父が畑で使っていた錆びだらけの鍬(くわ)の写真だ。
僕はずっと祖父母の写真を撮り続けているけれど、祖父が8年前に亡くなった後も、実家に行くたびに祖父が着ていた洋服や使っていた農工具の写真を撮っていた。しかし、時間が経つにつれて、着ていた洋服や読んでいた本などは処分されていき、実家に帰るたびに少しずつ祖父の部屋が片付けられていった。その光景を見る度に、少しずつ祖父の存在が消えていくような感じがした。
現在も、祖母が畑仕事をしているので、祖父が使っていた農工具は今でも残っているのだが、先日、祖父が使っていた鍬の金具の接合部が折れてしまい使えなくなってしまった。使えない鍬は処分するほかなかった。鍬のような頑丈なものですら、物はいつか壊れてしまい、消えてしまうことを思い知った時、率直に写真にしておいてよかったと思った。
そんなエピソードもあって、自分の書斎に飾る写真は祖父の鍬の写真を選んだ。選んだウォールデコはミュージアムタイプのA2サイズで、印画紙はディープマット(無光沢)。
写真は5000万画素のデジタルカメラの高解像なデータであったため、大きな印画紙を使用することで、小さな土の粒を描写できればと考えていたが、仕上がったプリントを見て、その美しさに驚いた。土の粒子の細部までの表現だけでなく、シャドー部の表現、とくに鍬の柄の部分の影が刃にかかっていく暗部の階調が非常に豊かに描写されていたからだ。
まるでそこに本物の土が載っていて触れられるかのような再現性があった。
僕はこの写真を書斎のパソコンの前に飾った。仕事するためにパソコンに向かうとき、この写真を見つめる。祖父は写っていないが、その写真をみると、朝早くから畑仕事に精を出していた祖父の顔と筋骨隆々だった太い二の腕が蘇ってくる。働き者の祖父はよく「家族のためにしっかり働け」って言っていたなと、畑に立つ祖父のことを思い出しながら、徹夜して仕事をしなければいけない時なんかは自分を奮い立たせている。
部屋に飾る写真は、思い出の引き出しを開く鍵のような写真がいいと僕は思っている。写真の中の光は未来を照らし、影は過去を支えてくれるものだから。
川原 和之さん(@kazuyukikawahara)
1983年生まれ、富山県在住。祖父母の写真を撮り始めたことをきっかけに独学で写真を学び、現在も家族をテーマとした写真作品を制作している。"My heroes are my grandparents. They teach me about life just by standing before my camera."
Writing & Photo by 川原 和之さん